関西ハイキング

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街歩き、ミステリー、登山情報を発信しています❣️

多くの華僑から厚い信仰を集める寺『関帝廟(かんていびょう)』|関西ハイキング(神戸市中央区)

関帝廟(かんていびょう)

関帝廟関羽の鎮魂のための「社」です❗️

三国志の英雄・関羽(162年ー219年)は蜀の皇帝・劉備に仕えた人物
中国の人たちは皇帝でなかった関羽を「関帝」と崇めました!

関羽は「誠実」な人物で、敵となった曹操にも過去に恩義を受けたことがあったから、立ち去るときに義理堅く恩返しをしています

契約すれば、どんなことがあってもそれを守る

関羽の義理堅さは、商人だけに必須のものではなく、学問であれ、役人であれ、技術者であれ、信義は厳に守るべきものなのでしょう❣️

 

本堂(金堂)

外観は、全体的には禅宗の様式
屋根の上に祀られた、玉を掴んで両方から睨み合っている白色の双龍が目を引きます

内部には9体の像が祀られています
中央に位置するのは関帝廟の本尊である「関聖帝君像」❗️
関羽を祀ったもので、別名を「財帛聖君」あるいは「老爺」といい
中国では商売の神様としても知られています❣️

右から2番目に位置するのが「聖観音像」
正式には「大慈大悲観世音菩薩」と言います
関帝廟は仏教のお寺でもあるので観音様も祀られています
中国ではこうした神仏混合の廟も珍しくないようです❣️

向かって左から2番目に位置するのが「天后聖母像
天后聖母像は海の神様で、俗に「媽祖」との言われています

両横には「千里眼」と「順風耳(地獄耳)」の従者がいます

 

大香炉

大きな香炉は1945年に戦災で焼けた中華会館から移転したもの
本来は宝器で香を焚くものではありませんが
現在は香炉として使われています❗️

 

唐獅子

被災した中華会館から移されたもの

中国式の参拝の順序と仕方

参拝の順路は、

  1. 天地神炉(本堂前)
  2. 関帝聖君
  3. 南無観音菩薩
  4. 天后聖母
  5. 福徳正神(本堂内右)
  6. 指南宮(本堂内左)
  7. 蔵王菩薩(入口横)
  8. 喉呀

参拝の仕方は、線香を各香炉に立てた後
本堂に入ってそれぞれの神仏の前に行って参拝します
線香を立てるのは神仏を迎えるためです❗️

「天地神」は南に向かって拝みます
・大礼=ひざまずいて頭を地面に3回つけこれを3回繰り返します
・常礼=ひざまずき合唱し3回拝みます

 

ご利益満載の『尼崎神社』探訪|関西ハイキング(兵庫県尼崎市)

 

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尼崎の総氏神と親しまれている『貴布禰神社
商売繁盛で多くの人が訪れる『尼崎えびす神社』
ご利益満載です❣️

https://youtu.be/bi9OBz9nihA


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貴布禰神社

尼崎城主の御祈願所だったことから、地元では「尼崎の総氏神」として親しまれています❗️
お祀りされているのは「高龗神(タカオカミノカミ)」
街並みに溶け込む深緑の大鳥居と300年以上変わらない山門のコントラストは素晴らしい❣️

住所:尼崎市西本町6-246
時間:9時から17時まで
休み:無休

 

尼崎えびす神社

商売繁盛や家内安全を願いに多くの人が訪れる「尼のえべっさん」❗️
触ると癒される世にも不思議な「月象石」
勝負運を授けてくれる願掛け馬「勝馬さん」
稲荷神に願い事をする「願掛けきつね」
など、人々を幸せに導く祈願所が随所にありました❣️

住所:尼崎市神田中通3-82
時間:10時から16時まで
休み:無休

嗚呼忠臣楠子之墓(ああちゅうしんなんしのはか)の原文解読❗️|関西ハイキング(神戸市中央区)

 

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嗚呼忠臣楠子之墓(ああちゅうしんなんしのはか)

お墓は湊川神社境内の東南隅にあります❗️

1692年に水戸黄門様が建て
黄門様自ら「嗚呼忠臣楠子之墓」の文字を書き
裏面には中国明の儒学者朱舜水(しゅしゅんすい)の文書を刻ませました

この墓碑は幕末勤王思想の発展を助け
明治維新への力強い精神的指導力となりました❣️

みなこの墓前に至誠を誓い、国事に奔走しています❗️


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墓碑の裏面に刻まれた原文と意味

 

原文

忠孝著乎天下日月麗乎天天地無日月則晦蒙否塞人心廢忠孝則亂賊相尋乾坤反覆余聞楠公諱正成者忠勇節烈國士無雙蒐其行事不可概見大抵公之用兵審強弱之勢於幾先決成敗之機於呼吸知人善任體士推誠是以謀無不中而戰無不克誓心天地金石不渝不爲利囘不爲害怵故能興復王室還於舊都諺云前門拒狼後門進虎廟謨不臧元兇接踵構殺國儲傾移鐘簴功垂成而震主策雖善而弗庸自古未有元帥妒前庸臣專斷而大將能立功於外者卒之以身許國之死靡佗觀其臨終訓子從容就義託孤寄命言不及私自非精忠貫日能如是整而暇乎父子兄弟世篤忠貞節孝萃於一門盛矣哉至今王公大人以及里巷之士交口而誦説之不衰其必有大過人者惜乎載筆者無所考信不能發揚其盛美大德耳
右故河攝泉三州守贈正三位近衛中將楠公贊明徴士舜水朱之瑜字魯璵之所撰勒代碑文以垂不朽

 

解釈

忠孝(←君主に対する忠義と親に対する孝行を説かれた道徳思想)は天下についたものだから、改めて声高に忠孝を説く必要はない。忠孝をつくすことは人間にとって当然なことであり、自然なことなのである。それは太陽と月が天について万物を照らし育てているのと同様だからである。それ故、天地に太陽と月がなければ、真っ暗で動きのとれないふさがった状態になり、人の心から忠孝を廃すれば、乱臣賊子(らんしんぞくし:国に害を与える悪い家臣と親の心に背いて悪事をはたらく者)が相次いで起こり、国家世界は遂には転覆してしまうのである。
自分は聞いている。楠 正成(くすのき まさしげ)という人は、忠実かつ勇敢で、国中で比べる者がない程のすぐれた人物であると。しかしその楠公の行った偉大な事柄を集めてみても、その多くは埋もれて判明しないのである。その楠公の用兵の方法は、敵・味方の強弱の状態を戦いの前に細かく調べ、勝敗は一瞬で決するという。まさに戦いの妙にたけていたのである。それに人物の性格や能力を知って処遇し、有能な人を任用し誠意をもって事にあたらせた。そのために、計略はことごとく的中し、戦争は必ず勝利を得ることが出来たのである。
また、楠公は天地神明に誓って行動し、金や石の硬さと同じく心変わりすることがなかった。利益 によっても左右されず、威力によって脅かしたり恐れて避けようともしなかった。このことから、皇室を復興して後醍醐天皇を京都にお還しすることが出来たのである。しかし「前門の虎後門の狼」(立て続けに災難に見舞われること)といふことわざがある。つまり、前に北条高時を亡ぼしたが、それが足利尊氏の横暴を招くことにもなったのである。この大切な時に、朝廷の政治が不適切であったために悪人が次々に起こり、遂には皇太子である護良親王を無実の罪で葬るという大逆を行ったのである。
一方、楠公にあってはその功績があまりに大きかったことが原因で、後醍醐天皇に不安の気持ちを抱かせたのである。このような場合には、例えその献策が良くても採用されぬものである。昔から一番偉い人が、部下の功を妬んで妨害し、また愚臣が勝手に権力を振ふ状態では、どんな有能な武将でも外で勝利を得るといふことはありえないのである。
とどのつまりは、自分の一身を国に捧げ、わが身を国家のために犠牲にすること以外はなさらなかった。死を覚悟しても、ゆったりと落ち着いて大義に就き、一家の私事に及ぶことなく、すべて国のことのみであった。その混じり気のない忠義が太陽にまで到達するような人でなければ、討死することがわかっていながらも、整然として取り乱さず動じない態度を保つことは出来ないはずである。これは楠公だけでなく、親も子も兄弟も同じである。 誠に粋なことである。昔から今日に至るまで、上は皇室から身分高き人々、下は一般庶民まで、 皆口々に楠公の事を賞讃するところからみると、これは、楠公とその一門が、人々よりすぐれていたからであろう。しかるに残念な事は、記録文書がなく証拠によって確かめる確実なものがないために、楠公の盛美(この上もなく美しく立派なこと)と大徳(偉大な徳)を褒め称えることが出来ないと言うことである。
右はもとの河内、摂津、 和泉三国の太守、贈正三位 近衛の中将楠公の賛である。
これは明の学徳高き人で号は舜水、名は之喩、字は魯嶼の撰文である。それ碑文に代用して石に刻み、後世に残す。

 

儒学者朱舜水(しゅしゅんすい)

中国明の儒学者(1600年〜1682年)

清朝に滅ぼされた明朝の再興運動に参画するも
1659年にあきらめ日本の長崎に亡命

1665 年には徳川光圀の招聘によって江戸に移住し
大日本史編纂や水戸学に影響を与えています❗️

 

住吉川流域の遺跡を巡る❗️|関西ハイキング(神戸市東灘区)

 

住吉川流域の遺跡

縄文時代の遺跡は、岡本7丁目で竪穴住居を発見❗️

弥生時代になると、本山・御影付近の平野部に加え
森北町・荒神山・赤塚山・金鳥山などの丘陵地にも集落が作られました

銅鐸(どうたく)の出土の多いところとしても有名
渦ケ森・森・生駒では丘陵上から見つかり
本山では平野部からも出土しています❣️

古墳時代のものでは

  • 万葉集に悲恋物語として読まれて有名な「処女塚古墳(おとめづかこふん)」
  • 東西の「求女塚古墳(もとめづかこふん)」
  • 岡本の「へボソ塚古墳」などの前方後円墳

 

東求女塚古墳

葦屋の菟名負処女(あしやのうなひおとめ)をめぐる悲恋伝説ゆかりの塚
として古くから有名

伝説では、菟名負処女をめぐって争った信太壮士(しのだおとこ)の墓だといわれていますが、実際はこのあたりを支配した豪族の墓であろうと考えられています

墳丘のほとんどは土取りによってありません

前方部を北西に向けた全長約80メートルの前方後円墳
出土した遺物は、銅鏡、車輪石、剣、玉など
現在は東京国立博物館に保管されています

古墳の作られた年代は4世紀後半と考えられています❗️

 

住吉宮町遺跡 (すみよしみやまちいせき)

東灘区住吉宮町付近に広がる、弥生時代から室町時代まで続く遺跡
遺跡は、東を流れる住吉川や西を流れる石屋川によって形成された扇状地の上に立地

昭和60年に発見されてから発掘調査が行われ、地下2〜4メートルの所から多くの遺物とともに、中世から奈良時代の建物跡、古墳時代の竪穴住居跡、古墳・弥生時代の墓地などが見つかっています

 

住吉東古墳

JR住吉駅前のシーアの駐車場で、帆立貝の様な形をした古墳が発見され
住吉東古墳」と命名されました❗️

全長24メートル・高さ1.5メートルのもの

 

近世以降の時代

近世以降、農村であった東灘地区は京都大阪に通じる街道筋にあたり
産業として御影石の切り出し」「水車業」「酒造業」が盛んに行われました❗️

御影石で有名な六甲山は、良質の岩石・花崗岩が数多く産出されることから
荒神山、重箱山、五助山などに採石場が開かれました

江戸時代から昭和初期まで多くの水車小屋が建ち並び
水車の動力を活用した「菜種油の油絞」「酒造の精米」「素麺の製粉」も行われていました

電気の普及や水害・震災により、当時100基近くあった水車は今では姿を消しましたが、水車のモニュメントが復元「灘目の水車(なだめのすいしゃ)」(神戸市東灘区住吉山手4-1-26)され、実物代の水車を見ることができます❣️

 

 

住吉の地名の由来

「住吉」の地名は、住吉神社が祀られていることからその名がついています❗️
全国各地にある住吉神社はこの神社の摂社・末社
この住吉神社は本住吉(もとすみよし) 神社とも呼ばれます

毎年 5 月には地車(だんじり)の巡行が行われ
「東灘だんじり」の祭りの一つとして親しまれています❣️

 

至誠の精神を貫いた武将・楠木正成とは⁉️|関西ハイキング(神戸市中央区)

 

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武将・楠木正成

 

鎌倉時代末の動乱期を駆け抜けた武将❗️

豪族の家に生まれた正成(生年月日は不明)は、12歳の時に初陣に勝利し16歳で兵法書を学び取るなど若くして才能を発揮しました

正成が天下に名を轟かせたのは37歳の時

後醍醐天皇に忠義を誓い失政が続く鎌倉幕府の打倒を目指したものの
天皇はとらわれ島に流されてしまいます
窮地に立たされた正成が打開策としてとったのが
河内の国・千早城での籠城戦でした。
幕府軍を相手に奮闘し
その忠義を貫く心に各地の武士が奮い立ち参戦
ついに鎌倉幕府を滅亡へと追い込んだのです❣️

しかし、戦いの報酬が目当てだった武士も多く後醍醐天皇に不満を持つものも…
これらをまとめ上げたのが鎌倉幕府側の武将であった足利尊氏(あしかが たかうじ)
尊氏は九州で挙兵し京都へと進軍
動きを察した後醍醐天皇は正成にわずかな戦力で迎え撃つよう命じたのです❗️

決戦の地となったのが神戸湊川のあたり
正成軍が陣を構えたのが会下山(えげやま:現在の会下山公園)
圧倒的な戦力の差の前に術はなく
ついに湊川神社の社殿西側の地で命を経った(1336年7月4日)

見返りを一切求めず国への思いから後醍醐天皇に忠義を尽くした楠木正成
その真っ直ぐな志を偲び今でも参拝する人はたくさんいます❣️

 

至誠の精神

楠公さんは「智・仁・勇」の三徳を兼ね備えた聖人

知=奇策・知謀を持った武略
仁=敵も味方も愛する命を救うという仁愛・博愛
勇=貫き通すことができる実行力

この「至誠の精神」が700年近くにわたって人々を感動させてきました❗️

 


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湊川神社の社殿の左手にある木立の中には
正成の戦没地があり正成公終焉の地として伝わります❗️

 

尼崎城|関西ハイキング(兵庫県尼崎市)

 

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尼崎城

https://youtu.be/LWeA3WvCoPI


www.youtube.com

1階 映像を駆使した尼崎の街歩き擬似体験

2階 VRシアター、鉄砲、剣術体験

3階 お姫様や忍者にコスプレ変身

4階 尼崎の謂れや歴史紹介

5階 展望ゾーン

 

住所:尼崎市北城内27
開城時間:9:00-17:00(1階以外500円)
休城日:月曜日

日本サーカー&結弦ファンの聖地『弓弦羽神社』|関西ハイキング(神戸市東灘区)

 

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出所:弓弦羽神社

弓弦羽神社

849年に総建された必勝祈願の神社

日本の第14代天皇仲哀天皇の皇后神功皇后(じんぐうこうごう)が
熊野大神に戦勝を祈願するため
弓矢と甲冑(かっちゅう)をこの地で納めたことから
その名がついた❗️

熊野三山に祀られる神
伊弉册尊(いざなみのみこと/那智大社
事解之男命(ことさかのおのみこと/本宮大社
速玉之男命(はやたまのおのみこと/速玉大社)

近年はシンボルである八咫烏(やたがらす)の導きによって
“勝利”を祈願する神社として親しまれています❣️

 

神戸の御影は日本サッカー発祥の地


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 日本サッカーは1872年に神戸市の外国人居留地で開催された試合が最初

日本初のサッカーチームが御影師範学校であったことから
神社の境内には御影石でできたサッカーボールを設置❗️

女子サッカークラブ「INAC神戸レオネッサ」がシーズンイン前に必勝祈願を行うことでも知られています

阪神御影駅の高架下にある「沢の井」

この井戸は、近くの小学校と中学校の校歌にも登場し、地域の子供達に親しまれている場所です。この地は、14代仲哀天皇の后・神功皇后が、三韓出兵の還り、御影の浜に上陸されて、そこに湧く美しい泉にその姿を映されたという言い伝えのある場所で、皇后がそのお姿(おんかげ・御影)を映されたことから、この地をのちに「御影(みかげ)」と呼ぶようになったという伝説があります。

汲めども尽きぬ水清らかな沢の井に、自身の姿を写し、御影の由来に想いを巡らせてみては如何でしょうか?

 

神社のシンボルマークはサッカー日本代表の「八咫烏

八咫烏(やたがらす)は
天皇を熊野の国(和歌山県三重県)から大和の国(奈良県)まで導いたとされる鳥

昔から、熊野大神和歌山県にある「熊野本宮大社」「熊野速玉大社」「熊の那智大社」の祭神)の使いとして知られています

この八咫烏サッカー日本代表のシンボルマークとなったのは
日本サッカー協会が日本にサッカーを広めた中村覚之助氏にちなんだマークを探し求め、生誕の地熊野にまつわる伝承「八咫烏」にたどり着いたことが由縁

 

羽生結弦ファンの聖地

羽生結弦選手は2011年に参拝
絵馬をみると、そのほとんどが羽生選手を応援し、必勝祈願をするもの❗️