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嗚呼忠臣楠子之墓(ああちゅうしんなんしのはか)の原文解読❗️|関西ハイキング(神戸市中央区)

 

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嗚呼忠臣楠子之墓(ああちゅうしんなんしのはか)

お墓は湊川神社境内の東南隅にあります❗️

1692年に水戸黄門様が建て
黄門様自ら「嗚呼忠臣楠子之墓」の文字を書き
裏面には中国明の儒学者朱舜水(しゅしゅんすい)の文書を刻ませました

この墓碑は幕末勤王思想の発展を助け
明治維新への力強い精神的指導力となりました❣️

みなこの墓前に至誠を誓い、国事に奔走しています❗️


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墓碑の裏面に刻まれた原文と意味

 

原文

忠孝著乎天下日月麗乎天天地無日月則晦蒙否塞人心廢忠孝則亂賊相尋乾坤反覆余聞楠公諱正成者忠勇節烈國士無雙蒐其行事不可概見大抵公之用兵審強弱之勢於幾先決成敗之機於呼吸知人善任體士推誠是以謀無不中而戰無不克誓心天地金石不渝不爲利囘不爲害怵故能興復王室還於舊都諺云前門拒狼後門進虎廟謨不臧元兇接踵構殺國儲傾移鐘簴功垂成而震主策雖善而弗庸自古未有元帥妒前庸臣專斷而大將能立功於外者卒之以身許國之死靡佗觀其臨終訓子從容就義託孤寄命言不及私自非精忠貫日能如是整而暇乎父子兄弟世篤忠貞節孝萃於一門盛矣哉至今王公大人以及里巷之士交口而誦説之不衰其必有大過人者惜乎載筆者無所考信不能發揚其盛美大德耳
右故河攝泉三州守贈正三位近衛中將楠公贊明徴士舜水朱之瑜字魯璵之所撰勒代碑文以垂不朽

 

解釈

忠孝(←君主に対する忠義と親に対する孝行を説かれた道徳思想)は天下についたものだから、改めて声高に忠孝を説く必要はない。忠孝をつくすことは人間にとって当然なことであり、自然なことなのである。それは太陽と月が天について万物を照らし育てているのと同様だからである。それ故、天地に太陽と月がなければ、真っ暗で動きのとれないふさがった状態になり、人の心から忠孝を廃すれば、乱臣賊子(らんしんぞくし:国に害を与える悪い家臣と親の心に背いて悪事をはたらく者)が相次いで起こり、国家世界は遂には転覆してしまうのである。
自分は聞いている。楠 正成(くすのき まさしげ)という人は、忠実かつ勇敢で、国中で比べる者がない程のすぐれた人物であると。しかしその楠公の行った偉大な事柄を集めてみても、その多くは埋もれて判明しないのである。その楠公の用兵の方法は、敵・味方の強弱の状態を戦いの前に細かく調べ、勝敗は一瞬で決するという。まさに戦いの妙にたけていたのである。それに人物の性格や能力を知って処遇し、有能な人を任用し誠意をもって事にあたらせた。そのために、計略はことごとく的中し、戦争は必ず勝利を得ることが出来たのである。
また、楠公は天地神明に誓って行動し、金や石の硬さと同じく心変わりすることがなかった。利益 によっても左右されず、威力によって脅かしたり恐れて避けようともしなかった。このことから、皇室を復興して後醍醐天皇を京都にお還しすることが出来たのである。しかし「前門の虎後門の狼」(立て続けに災難に見舞われること)といふことわざがある。つまり、前に北条高時を亡ぼしたが、それが足利尊氏の横暴を招くことにもなったのである。この大切な時に、朝廷の政治が不適切であったために悪人が次々に起こり、遂には皇太子である護良親王を無実の罪で葬るという大逆を行ったのである。
一方、楠公にあってはその功績があまりに大きかったことが原因で、後醍醐天皇に不安の気持ちを抱かせたのである。このような場合には、例えその献策が良くても採用されぬものである。昔から一番偉い人が、部下の功を妬んで妨害し、また愚臣が勝手に権力を振ふ状態では、どんな有能な武将でも外で勝利を得るといふことはありえないのである。
とどのつまりは、自分の一身を国に捧げ、わが身を国家のために犠牲にすること以外はなさらなかった。死を覚悟しても、ゆったりと落ち着いて大義に就き、一家の私事に及ぶことなく、すべて国のことのみであった。その混じり気のない忠義が太陽にまで到達するような人でなければ、討死することがわかっていながらも、整然として取り乱さず動じない態度を保つことは出来ないはずである。これは楠公だけでなく、親も子も兄弟も同じである。 誠に粋なことである。昔から今日に至るまで、上は皇室から身分高き人々、下は一般庶民まで、 皆口々に楠公の事を賞讃するところからみると、これは、楠公とその一門が、人々よりすぐれていたからであろう。しかるに残念な事は、記録文書がなく証拠によって確かめる確実なものがないために、楠公の盛美(この上もなく美しく立派なこと)と大徳(偉大な徳)を褒め称えることが出来ないと言うことである。
右はもとの河内、摂津、 和泉三国の太守、贈正三位 近衛の中将楠公の賛である。
これは明の学徳高き人で号は舜水、名は之喩、字は魯嶼の撰文である。それ碑文に代用して石に刻み、後世に残す。

 

儒学者朱舜水(しゅしゅんすい)

中国明の儒学者(1600年〜1682年)

清朝に滅ぼされた明朝の再興運動に参画するも
1659年にあきらめ日本の長崎に亡命

1665 年には徳川光圀の招聘によって江戸に移住し
大日本史編纂や水戸学に影響を与えています❗️